心のクリーニングにいたる自作自演の旅

2010年頃だろうか、ホ・オポノポノを知って、本を買って、読んで、セミナーにも参加して、KRさんのセッションも何度か受けた。クリーニングということを習った。

2025年現在、『A Course in Miracles』奇跡のコースを学んでいて、さまざまな点と点が繋がって感じられるようになった。
でも、きっとわたしは何にもわかっていないのだろうと思う。

ただ日々を、日々見ている風景をこれまでとは違った見方でみるということを実践している。わたしはこれを求めていたのだなという満ち足りた感覚がある。

2010年の頃だって、渇望があった。何を求めていたかと言えば、外側の幸せだろうと思うけれど、本当はそれも、真実ではない。
はじめから、求めていたものは同じだったに違いない。
だから、その頃の自分にも理解できないような、ホ・ポノポノを実践していた。結構まじめにやっていた。

だからといって、自分が求めているものが具体的に現れてくるわけではなかったので、いつのまにかわたしは、そのことさえも忘れて、心がつくり出す混迷の道に吸い込まれていったのかもしれない。


その道中で味わった悲しい思いや、傷ついた思いをそのままに、あちこち正解を探す旅もほとほと疲れて、いったい自分はどこにいったらいいのかと、アンテナをはって探しつつ、量子研究の出会いから、とある会社と出会い仕事をした。

量子の研究、そしてそれは幸せのためだと、その成果を実践しつつも、わたしははじめから「幸せ」というものは、外側にあるものだと勘違いしていたと思う。

ようやく自分の居場所ができたと思ったし、喜んだけれど、より良い世界、より良いなにかをもとめる風潮の中で、わたしは自分を役に立つ存在として見せなければと思っていて、価値を感じないことに価値を感じなければならないように思ったり、誰かと競う心だったり、何にも関心を持てないことに時間を犠牲にする、ということを何か別の言い方をして乗り越えなければならないような雰囲気の中、どうしたって満たされていない自分を横目に、ひねくれていて、これ以上、がんばれないなと思っていた。

つまりはなにが幸せかどんどんわからなくなっていた。
仕事をして居場所を持って、収入も得られるようになり、仲間もいて仕事自体も充実していたけれど、

これが完全に幸せとは言えないし、このまま行ってもそれが訪れることにつながるとは思えずにいた。未来が見えなかった。いつか限界が来る気がしていた。信頼しているとは言え、心を預けられずにいた。
それに、自分の家族に対しての罪悪感も募っていた。何も力になれていない。何も変わっていない。自分のことばかりに費やす日々で、余裕を持てないでいた。

だからこそ、答えを求めていた。周りを観察すれば、上手に生きている人もいれば、郷に従っている人もいる、でもわたしはどちらでもない。

わたしはぜんぶ自分で何とかしなければならないと思っていたとおもう。

今思えば、わたしは何はどうあれ、ほんとうは自分が自分を受容したかった
そのために、外側でがんばっていたような気がする。

でも無意識下で、自分を認めていないので、外側で認められることを求めていたんだろうと、今は思う。

外側に権威があると信じていて、いつまでも支配下にいることを自分が選んでいるとはそのときも、気づいていない。

正しい自分というものを、外側のルールに則って演じた。
そうやってでしか、社会では生きていけないと思い込んでいた。
そうやっている自分以外の自分を見ることができなかった。

周りを観察して作った正しさを、自分なりに採用していれば、自分が納得する道が見えてくると信じていたと思う。

一方で、周りの言っていることをぜんぶ否定していたわけではないし、周りにいる人それぞれの個性、それは、その人の「祈り」であるかのように受け止めていた。受容していた。

だけど、仕事に関しては違和感があった。それはきっと、そこで自分の力を発揮させたいという自己主張が発揮できず、周りにとって都合のいい人をやることを選んでいたからだと思う。都合のいい存在になっている自分もつらくて、そういう自分をやめたかったのだと思う。

収入は減ってしまう、でも、そこは夫に頼りつつ、しばらくは休もうと思った。一緒に働く仲間と離れてしまってはとても寂しいという気持ちもあったけれど、それにしがみついても慰めにはならないということは明らかだった。


ここまで書いて、心をクリーニングするポイントが見えてきました。

周りに都合のいい存在でいることを無意識に選んでしまっていた

わたしははじめから「幸せ」というものは、外側にあるものだど勘違いしていた

ぜんぶ自分で何とかしなければならないと思っていた

外側に権威があると信じていた

ほんとうは自分が自分を受容したかった

今頃それをちゃんとうけとめています。

そしてわたしは、いつでもそうなんじゃないかと、いまもそうなのかもしれない。だとしても、これをゆるしに捧げます。
当時の自分ではなかなか気づけなかったかもしれない。


自分が作った自作自演の物語を眺め、意味のない思いから自由になっていきます。